永代橋のいまむかし

北斎によって描かれた永代橋
昨年判明した北斎によって描かれたとされる6枚の画の中には、東京・永代橋が描かたものが存在している(下記、6枚目)。文化4年8月19日(1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日(深川祭)に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故が発生した。群衆が次々と押し寄せては転落し死傷者・行方不明者を合わせると実に1,400人を超え、史上最悪の落橋事故と言われている。

葛飾北斎による西洋風肉筆画と判明
-以下引用-

オランダ・ライデン市の国立民族学博物館に所蔵され、長く作者不明だった6枚の絵が江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)による西洋風肉筆画だったことが、昨年、判明した。そもそも、なぜ長年の間、作者が分からなかったのか。同博物館シニア研究員のマティ・フォラー氏が長崎市発行の学術誌に寄せた論文を基に、絵画の謎に迫る。

江戸各地の風景が描かれた絵画6枚は、出島のオランダ商館医だったシーボルトらから影響を受けた作品群とみられる。まず墨で基本的な枠取りをしてから色を入れていくという日本画的な画法は見受けられず、遠近法などを取り入れた西洋画法に基づいて描かれているのが特徴とされる。

このうちの1枚「江戸湾を臨む東海道品川」は、江戸湾の月明かりの光景が美しく広角に描かれているのが印象的。月夜の暗い場面を巧みに捉えており、月光の加減を東海道の路面に差す人影だけで表現している。左手の波間に反射する月光も繊細に描いている。

これらの作品が作者不明だった最大の理由は、署名や落款(印鑑)がなかったことにある。1820~29年に出島商館員を務めたフィッセルが当時の日本の習わしやしきたりなどについて書いた著書「日本風俗備考」で、オランダ人は1人の画匠を通してでしか絵画を得られない不文律を批判的に記している。

画匠とは、出島出入り絵師の川原慶賀(1786~1860)を指しているとされる。当時は外国人と日本人の接触が制限された鎖国下。日本側はオランダ人が安易に別の絵師に接触しないよう規制をかけ、署名や落款を入れられるのは川原だけだったようだ。シーボルトが北斎から絵画6枚を受け取ったのは江戸だったが、長崎から離れた地域でもこうした不文律が尊重されていたらしく、検閲のような検査もあったという。このため、北斎はわざと作者不明にすることで「抜け道」にしたとみられる。

一方で、何でも細かく記録したシーボルトの性格が、謎の解明に役立った。ドイツに保存されていた絵画コレクションの自筆目録の中に「88~93江戸と江戸近郊の図6枚、幕府御用絵師北斎による西洋風に描かれた風景画」との記述が見つかり、作者不明となっていた絵画6枚の特徴と一致した。

1826年5月にシーボルトが江戸に上った際、オランダ人が定宿としていた旅館を北斎が訪問したことが分かっている。北斎は晩年にも画法の研究を怠らずに続ける努力家。フォラー氏は論文で「遠近法を中心とする西洋画法について、北斎やシーボルトが旅館で議論したのではないか」と推測する。

北斎がシーボルトに出会って4年後の30年から、代表作の「富嶽三十六景」が随時刊行される。オランダ人との交流をきっかけに、西洋画法の絵画6枚を手がけていたことが「富嶽三十六景」の成功につながった可能性もある。

シーボルトがオランダに持ち帰った絵画コレクションのうち、川原慶賀やその関係者が描いたとされる絵画は膨大な数に上り、現在はドイツやロシアなどにも残っている。フォラー氏は「これらの絵画についても改めて精査する必要がある」と指摘する。

1.江戸湾を臨む東海道品川

2.日本橋

3.両国橋

4.橋場の渡し

5.冬景色

6.永代橋

(いずれもオランダ・ライデン市 国立民族学博物館所蔵)

東京名所絵葉書に見る永代橋
1897年完成の旧永代橋の様子が、東京名所絵葉書「永代橋7 東京名所・鉄橋に市電」として発行されている。1904年(明治37年)には東京市街鉄道(後の東京都電)による路面電車も敷設された(1972年(昭和47年)11月に廃止)。しかし橋底には木材を使用していたため、1923年(大正12年)の関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出した。

現在の永代橋
その後、1926年(大正15年)に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋された。